肩の力を抜いてスポーツと関わる大切さ
講師 大沼博靖(スポーツマネジメント、スポーツ社会学、スポーツジャーナリズム、ICTを活用した運動指導法)
海の向こう米国でも野球のオープン戦が始まった。今年の大きな話題のひとつが、メジャー・リーグでも二刀流を目指す大谷翔平選手である。これまでに二刀流で活躍した選手と言えば、メジャー・リーグ史上最高の選手と称されるベーブ・ルースに行き着く。レッドソックス時代には投手としても活躍し、1950~60年代のヤンキースのエース左腕ホワイティー・フォードに破られるまでは、ワールドシリーズでの連続無失点記録を保持していた。
同一競技でなければ、野球とアメリカンフットボールで活躍したボー・ジャクソンやディオン・サンダース、1980年のレークプラシッド冬季五輪男子スピードスケートで5種目(500m、1000m、1500m、5000m、10000m)全てを制したエリック・ハイデンが、自転車レースの最高峰ツール・ド・フランスに挑戦した雄姿も印象に残っている。米国人のアスリートが複数競技で活躍する要因が、シーズン毎に異なるスポーツを楽しむ環境にあるのかは想像の域を出ないが、競技の専門化が進んだ現在では、複数競技で活躍するアスリートは少なくなった。
そんな中、先日閉幕した平昌五輪ではスノーボードとスキーのアルペン種目で金メダルを獲得する選手が現れた。彼女の名はエステル・レデツカ(チェコ)。元々はスノーボードの選手だが、本職であるスノーボードのパラレル大回転だけでなくスキーのスーパー大回転でも金メダルを獲得してしまった。TVなどでもかなり大々的に取り上げられていたので、ご存知の方も多いだろう。
何を強調したかったかと言えば、世界には複数種目で偉業を成し遂げるアスリートが存在するということ。言い換えれば、色々なスポーツに関与できる環境があるということにもなるだろう。翻って日本はどうだろうか。三男の通う小学校を見ていると、今年24歳になる長男の時代と変わらず野球少年は野球だけ、サッカー少年はサッカーだけが続いている。色々なスポーツを経験することで予期せぬ他のスポーツとの出会いが期待できるのだが、そんな環境整備が進んだ気配は余り感じられない。
最終的に何か1つを選択するとしても、せめて小学校時代には色々なスポーツを経験して欲しい。自分に何が向いているのかなんてやってみなけりゃわからない。一方で「いやいや、科学的に分析すればある程度の傾向は見えてくる」という反論も聞こえてきそうだ。確かにそうかも知れない。しかし、遊びに起源を持つスポーツは楽しさや自発性が重要であって、決して強制されてプレーするものではない。
遊びの理論を構築してきたヨハン・ホイジンガやロジェ・カイヨワらの言葉を借りれば、遊びと同様にスポーツも「遊」と呼ばれる空間で行われているととらえてよいだろう。つまり、私たちが生きる「俗」なる空間でもなければ、神が存在する「聖」なる空間でもない。特有のルールが存在する全く異なる空間だからこそ、俗世間での地位や約束は意味をなさない。スポーツのルールの下にお互いが尊重し合い、純粋に楽しめるか否かが重要となるはずである。
個人的には先に挙げた楽しさや自発性に加え、乗用車のハンドルのように遊びが必要だと感じている。好きなスポーツに熱中することは大切である。しかし、F1のようにミリ単位のハンドル操作で方向が大きく変わってしまうようでは余裕が生まれず、常に緊張を強いられ疲れて果ててしまう。誰もが五輪やプロで活躍できる選手になれるわけではない。ほんのちょっとだけ肩の力を抜いて周りを見渡し、異なるスポーツや異なる活動を楽しむことも大切に違いない。
他競技も含め様々な活動に取り組むことで、「これだ!」と思えるものと出会える可能性が高まる。それだけではない。改めて自分がプレーしてきたスポーツの良さを再発見することにもつながるはずである。中途半端な二刀流、三刀流で大いに結構、むしろ自らの可能性を広める努力を続けることに意義があるだろう。多くの人々に多様なスポーツ観と参与の選択肢を提示できる仕組みを構築することが、私を含めスポーツの社会科学分野に携わる教員の役目でもある。
海の向こう米国でも野球のオープン戦が始まった。今年の大きな話題のひとつが、メジャー・リーグでも二刀流を目指す大谷翔平選手である。これまでに二刀流で活躍した選手と言えば、メジャー・リーグ史上最高の選手と称されるベーブ・ルースに行き着く。レッドソックス時代には投手としても活躍し、1950~60年代のヤンキースのエース左腕ホワイティー・フォードに破られるまでは、ワールドシリーズでの連続無失点記録を保持していた。
同一競技でなければ、野球とアメリカンフットボールで活躍したボー・ジャクソンやディオン・サンダース、1980年のレークプラシッド冬季五輪男子スピードスケートで5種目(500m、1000m、1500m、5000m、10000m)全てを制したエリック・ハイデンが、自転車レースの最高峰ツール・ド・フランスに挑戦した雄姿も印象に残っている。米国人のアスリートが複数競技で活躍する要因が、シーズン毎に異なるスポーツを楽しむ環境にあるのかは想像の域を出ないが、競技の専門化が進んだ現在では、複数競技で活躍するアスリートは少なくなった。
そんな中、先日閉幕した平昌五輪ではスノーボードとスキーのアルペン種目で金メダルを獲得する選手が現れた。彼女の名はエステル・レデツカ(チェコ)。元々はスノーボードの選手だが、本職であるスノーボードのパラレル大回転だけでなくスキーのスーパー大回転でも金メダルを獲得してしまった。TVなどでもかなり大々的に取り上げられていたので、ご存知の方も多いだろう。
何を強調したかったかと言えば、世界には複数種目で偉業を成し遂げるアスリートが存在するということ。言い換えれば、色々なスポーツに関与できる環境があるということにもなるだろう。翻って日本はどうだろうか。三男の通う小学校を見ていると、今年24歳になる長男の時代と変わらず野球少年は野球だけ、サッカー少年はサッカーだけが続いている。色々なスポーツを経験することで予期せぬ他のスポーツとの出会いが期待できるのだが、そんな環境整備が進んだ気配は余り感じられない。
最終的に何か1つを選択するとしても、せめて小学校時代には色々なスポーツを経験して欲しい。自分に何が向いているのかなんてやってみなけりゃわからない。一方で「いやいや、科学的に分析すればある程度の傾向は見えてくる」という反論も聞こえてきそうだ。確かにそうかも知れない。しかし、遊びに起源を持つスポーツは楽しさや自発性が重要であって、決して強制されてプレーするものではない。
遊びの理論を構築してきたヨハン・ホイジンガやロジェ・カイヨワらの言葉を借りれば、遊びと同様にスポーツも「遊」と呼ばれる空間で行われているととらえてよいだろう。つまり、私たちが生きる「俗」なる空間でもなければ、神が存在する「聖」なる空間でもない。特有のルールが存在する全く異なる空間だからこそ、俗世間での地位や約束は意味をなさない。スポーツのルールの下にお互いが尊重し合い、純粋に楽しめるか否かが重要となるはずである。
個人的には先に挙げた楽しさや自発性に加え、乗用車のハンドルのように遊びが必要だと感じている。好きなスポーツに熱中することは大切である。しかし、F1のようにミリ単位のハンドル操作で方向が大きく変わってしまうようでは余裕が生まれず、常に緊張を強いられ疲れて果ててしまう。誰もが五輪やプロで活躍できる選手になれるわけではない。ほんのちょっとだけ肩の力を抜いて周りを見渡し、異なるスポーツや異なる活動を楽しむことも大切に違いない。
他競技も含め様々な活動に取り組むことで、「これだ!」と思えるものと出会える可能性が高まる。それだけではない。改めて自分がプレーしてきたスポーツの良さを再発見することにもつながるはずである。中途半端な二刀流、三刀流で大いに結構、むしろ自らの可能性を広める努力を続けることに意義があるだろう。多くの人々に多様なスポーツ観と参与の選択肢を提示できる仕組みを構築することが、私を含めスポーツの社会科学分野に携わる教員の役目でもある。