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そんなに強くなくても何とかなるのかもしれない:関係論の心理学へのお誘い


※職位や内容は投稿時のものです

2024年8月9日更新

 皆さん、どうも初めまして。北本遼太(きたもと・りょうた)と申します。
履歴書の資格欄に書けるものは普通自動車免許と博士(心理学)だけです。
ということで、心理学が専門です。
このエッセイでは、私の研究の根本にある考え方とその魅力を皆さんにお伝えしたいと思います。

 その話に入る前に皆さんに質問です。心はどこにあるのでしょうか?あるいは心は何だと思いますか?
 
 「心」臓というくらいだから、今も身体の中で拍動して血を全身に送っている臓器に備わっているのでしょうか?
あるいは、頭蓋骨の中にある神経細胞のかたまりである脳の活動が心なのでしょうか?
はたまた、目に見えない心ではなく具体的で誰からも見える行動こそが心なのでしょうか?
様々にご意見をお持ちだと思います。また皆さんのお考えを聞かせてください。

 さて、私は「心は関係性だ」と考えています。ちょっと変わった言い方をすれば、人や道具、制度、決まりなどの配置から浮き上がってくるものを私たちは心と呼んでいるのだと考えています。とてもヘンテコな考え方かもしれませんが、個人に心は備わっているのではないのです。そうではなく、みんな(ここにはヒト以外も含まれます)で心を一緒に作り上げているのです。

 私はこのヘンテコな考え方(心理学では「関係論」といいます)が結構気に入っています。その理由は、私も含めて人間はそこまで強くないけど、どうやったらより良い生活を作っていけるのかを考えるヒントを教えてくれるからです。

 例えば、今私は東京から帰る新幹線の中でこのエッセイを書いています。意外と筆が乗って書き進めることが出来ています。なぜかと考えてみると、締め切りぎりぎりまで何も手を付けていなかった、帰りに見ようと思っていたNetflixの動画をダウンロードできていなかった、スマートフォンの電池が無くなりそうでXを見ることができない、新幹線の車内販売がなくなってビールが買えない、ノートPCは仕事帰りなのでカバンに入っていた...。私が原稿に集中できている背景には少なくとも、「締め切り」という組織内の決まりに縛られ、「ネット環境」という技術から切り離され、「車内販売」というシステムが無くなり、「ノートPC」という道具が手元にあることがあります。ここから分かることは、一見すると真面目にキーボードを叩いている男性のようであっても、その「真面目さ」は「締め切り」、「ネット環境」、「車内販売」、「ノートPC」との関係から浮き上がっており、私の中に「真面目さ」という要素が備わっているわけでないということです。

 もしかしたら執筆作業を毎日コツコツと強固な意志によって行い、ネット環境やビールの誘惑に惑わされずに執筆に専心できる、そんな大学の先生の方がかっこいいのかもしれません(ちょっとだけ私もそんな人に憧れることもあります)。でも、かっこよくて強い個人であるように見えても、その人も何かに支えられていたり、依存していたりするのかもしれません。関係論に立つとそうした支えられていたり、依存していたりすることが、心を形作るうえで不可欠な要素だということに気づけます。さらに言えば、私や皆さんは個人として強くなくても周りとの関係をアレンジすることで、より良く生きていけるのです。

 私たちは常に強い個人でいられるわけではありません。でも、アクティブで強い個人であることを求められる場面が多くあると思います。「強くあらねばならない」という思い込みから離れて、いつもと違った世界を見るための視点を示してくれることが関係論の魅力です。ぜひ皆さんも関係論から心を私と一緒に考えてみませんか?

 そろそろ新幹線も目的地に着きそうなので、エッセイもこれにて終わりたいと思います。続きはまたいつか。