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「適職」神話の迷路とその淵源


※職位や内容は投稿時のものです

2024年6月14日更新

「適職」神話の迷路
 新4年は就職活動の真っ只中だと思います。また、新3年生はインターンシップを組み込んだ就職活動の早期・長期化に伴い、不安な気持ちになっているのではないかと思います。
私の経験で言えば、皆さんが直面する壁として、自分にあった仕事(「適職」)探しではないか、と思います。キャリア教育が大学で導入されて約20年が経過しますが、その特徴は社会の実態に触れずに学生の内面に入り込んで、心理的なアプローチで就職につなげようとする傾向が極めて強いことにあります。その中で、自分に合った仕事とは何かという「適職」神話の迷路にはまって、身動きがとれない学生を多く見てきました。以下では、社会学の始祖の一人であるマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下、『プロ倫』)を通して、「適職」の淵源を明らかにした上で、どのように、この神話に向き合ったらよいのかを述べていきたいと思います。

「適職」の淵源
 端的に言えば、『プロ倫』は、西ヨーロッパやアメリカで資本主義が生成した理由をプロテスタントの仕事に対する倫理観(「世俗内的禁欲」(注1))を軸に辿ることで明らかにしたことにあります。確かに、『プロ倫』はキリスト教文化が根付くヨーロッパの事例を示したものであり、我々日本人にはとっつきにくい存在かもしれません。しかし、同書は資本主義を誕生せしめたプロテスタントにおける仕事の倫理観を丹念に示しており、現代の資本主義社会における我々の「適職」観にも影響を与えています。
 『プロ倫』の概略を、田中(2014)等を引用しながら、以下に示していきます。宗教改革以降に誕生したカルヴァン派の教説に導出された「世俗内的禁欲」が重要な意味を持ちます。「カルヴァン派の教説『恩恵による選びの教説(予定説)』では、神は救済される人と地獄へ落とされる人を決定しており、これが人をかってないほど、内面的孤独にやった。なぜなら、人々は、永遠の幸福という人生最大の問題に対して完全に孤立化したからである」(田中2014:pp.51)。そして、各人は救いの確信を自身の「世俗内的禁欲」に求めることになります。具体的には、「日常の営みにおいて禁欲的な生活態度を徹底して守ることによって、生活は秩序あるものになり、…略…救いの確信はこのような行為そのものに求められなければならなかった」です(田中2014:pp.52)。
 そして、このような「世俗内的禁欲」にマルティン・ルターの「天職(Beruf)(注2)」が加わることになります。救いの確信を得るために、企業家は「営利」を「天職」と、労働者は自らの職業を「天職」とそれぞれみなすことで、労働者は「天職」として世俗的な職業に専心し、企業家は利潤の追求をする一方、ぜいたくな消費を禁じました。結果、獲得した利潤を消費せず、資本として投下することで、再投資のサイクルができあがります(田中2014:pp.53)。逆説的ですが、この「天職」概念と結びついた「世俗内的禁欲」(=「資本主義の精神」のエートス)こそが、巨大な富や消費を伴う資本主義を生み出す素地となったと結論付けています。資本主義の社会的機構が整備されてくると、「世俗内的禁欲」の核心であった教説にもとづく救いの確信は後景に退き、金儲けを倫理的義務として是認するようになります(大塚2004:pp.405)。同様に、「天職」も、次第に神の召命の側面が消え、今では、自己の目的・意義等にフォーカスした「適職」へと変化した、と考えられます(上野山2016)。

まとめ
 内面的孤独化の中で、純粋思考によって導かれた「天職」に端を発する「適職」に対して、皆さんはどのように向き合えばよいでしょうか。最後に、ヘーゲルの『精神現象学』にある「自己意識」にヒントを得て、まとめとしたいと思います。ヘーゲルは「自己意識は、自分でないものを媒介にして、一旦、自分ではなくなるということを通じてしか、自分であることに確信が持てないという逆説な存在」(田中2014:pp.60)としました。つまり、自身を知ることは、外界を媒介しないと、自分自身であることができないということを意味します。「適職」に即して言えば、皆さん一人ひとりに予め「適職」が存在するのではなく、自分の外に出ていく(行動する)ことで、自分の「適職」観を生成・更新していくものではないかと考えます。「適職」神話の迷路に陥ることなく、外界を通して、自身の「適職」を改めて考え直すというサイクルを意識してほしいと思います。このようなサイクルを経て、ようやく皆さん自身が腑に落ちる自らの「適職」観を獲得できるのではないかと考えます(注3)。


1)「世俗内的禁欲」は、禁欲するための消費や贅沢は日々、世俗的職業生活をおくっている信者個人に委ねられていま
  す。一方、カトリックである中世の西ヨーロッパの修道院生活では、厳しい生活規制がありましたが、その禁欲は
  修道士が神のために行うものであり、修道院内に閉じられたものでした(「世俗外的禁欲」)。両者を比較した場合、
  禁欲の強度は、前者の方が強いとしています。なぜなら、カトリックの場合、修道士が神のための禁欲主義を実践
  し、救いの確信は彼らを通して世俗の人々に与えられていた。…略…プロテスタンティズムにおいては、世俗の各人
  はそれを、日々の職業実践において直接、自分で行わなければならなくなった」(田中2014:pp51-52)からです。
2)この語のなかには、神の召命と世俗の職業という二つの意味がこめられていて、われわれの世俗の職業そのものが神
  からの召命だという考えを示すものとなっています(大塚2004:pp.397)。宗教改革を起こしたルターは、「天職」
  として、人と職業との結びつきは神が与えたものであるから、人は生涯その職業や身分にとどまるべきとしました。
  一方、カルヴァン派の流れを組む英国のピューリタンは規律ある労働にもとづく職業で、公共の福祉に貢献し、神に
  よる救いの確信をより高めるのではあれば、兼業・兼職や転業・転職は許容されたとしています(上野山2016)。
  結果、何が「天職」かということは、内面的孤独下にある信者に委ねられることになります。
3)この結論は、私の30年を超える職業人としての実感です。

文献
上野山達哉(2016)「プロテスタントの仕事倫理と天職概念の展開」『商学論集』(福島大学), 84(3), pp.189-204.
大塚久雄(2004)「訳者解説」マックス・ウェーバー(大塚久雄訳)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(改訳第36刷発行), 岩波書店,pp.373-412.
田中朋弘(2014)加藤尚武・立花隆[監修]『職業の倫理学』(第5刷発行),丸善出版.