グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ



ホーム >  リレーエッセイ >  2020東京オリンピック・パラリンピック,その光と陰;地方の視点から

2020東京オリンピック・パラリンピック,その光と陰;地方の視点から


教授 永山庸男(経営学・マーケティング)

 2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催まで3年を切って,様々な種目での世界大会が熱を帯びてきています。今年の夏の暑さを鑑みると,こんな気候の下での開催で本当に大丈夫だろうかと老婆心が大きく膨らんでしまいます。
 7月末から8月はじめにかけて,東京の後の開催予定地がIOC(国際オリンピック委員会)で内定されたと報道されました。2024年はパリ,2028年はロサンゼルスと,従来とは異なる決定の仕方です。開催に手を挙げたけど,国内での住民投票や反対多数により辞退する都市が多く,結局,最後まで手を降ろさなかった2つの都市に向こう2回分の開催を割り振った形となりました。
2008年の北京,2012年のロンドン,2016年のリオデジャネイロ,そして2020年の東京,そして今後の2つの予定都市を含めて,その開催都市を並べるとそれぞれ首都か,その国の代表的大都市です。しかも,それらの国はいずれもG7かG20とされる経済的に豊かと言われる国々です。しかし,ブラジルは,開催が決まった段階ではBRICS(ブラジル,ロシア,インド,中国,南アフリカ)という新興の経済発展国家として今後の経済発展が大きく期待された国でしたが,世界経済の変化・変質に伴い,昨年のオリンピック・パラリンピック開催を迎えた時には経済発展にはブレーキがかかり,経済停滞による国内不安まで起こっていました。そして,今ではオリンピック・パラリンピック開催に費やされた費用が国家財政に大きくのし掛かり,新設施設は瓦礫化している様子が映像とともに報道されています。
翻って東京の場合はどうでしょうか。報道によると,2017年5月31日,2020年東京五輪大会の開催経費について,東京都,国,大会組織委員会,それに都外に会場がある7道県4政令市の開催自治体(「関係自治体」)が連絡協議会を開き,総額「1兆3850億円」の費用分担の大枠で合意した,という。組織委員会が6000億円,国が1500億円,東京都が6000億円としています。残りの350億円については,誰が負担するのかは,結論を先送りしたとのこと。開催決定の歓喜の様子がテレビから流れた時は,7300億円の予算規模で「コンパクト五輪」がキャッチフレーズでした。組織委員会会長などは,当事者でありながら,昨年の今頃には当初の3倍の2兆円を超えるだろう,という無責任な発言をところ構わずしていました。都外会場となる関係自治体の首長,とりわけ,埼玉県知事,千葉県知事,神奈川県知事,宮城県知事の4氏の「話しが違う」という憤りの弁が連日マスコミから流れていたことは記憶に新しいことだと思います。東京都知事は自らの政治パフォーマンスとして,オリンピック・パラリンピック開催費用の縮減を図ると言明したものの,ものの見事に失敗したわけです。
こうした「カネの掛かる」,都市開催前提の五輪大会だからこそ,手を挙げる都市が無くなる,という悪循環を生み出しています。一方で,カネが掛かるということはそれだけ「投資」が行われるということです。設備や道路等のいわゆる箱物整備から運営に係るランニングコストという不可欠な部分まで様々な投資が行われます。それは,競技種目の拡大に伴って乗数的に膨張することとなります。1964年の前回の東京オリンピックのように,第2次大戦からの復興のトリガーとして行われた幅広い設備・インフラ投資は,教科書どおりのその後の経済発展へと繋がった投資でした。それは,1968年メキシコシティ,1972年ミュンヘン,1976年モントリオール,1988年ソウル,1992年バルセロナへと繋がった国内都市整備主体の国家政策でした。その意味で,夏季五輪の開催は,都市の近代化整備と経済力向上の超大型プロジェクトでした。だからこそ,大阪や名古屋がかつて名乗りをあげたわけです。しかしながら,挫折したのは,やはり「カネが掛かる」という大きな壁でもあったわけです。
 こうして観てくると,今回の東京五輪は,ますます東京一極集中をもたらす「投資」ではないかという心配が高じてきます。日本政府が謳い続ける地域創生とは真逆の状況を創り出すことには疑いはないのではないかと思えてなりません。オリンピック・パラリンピックという心躍るパフォーマンスがこの日本で行われ,そのパフォーマンスに参加するという夢,それを目の前で観戦できるという幸せは,計り知れない効果を人々にもたらします。ところが,それが,世界トップクラスのグローバルシティであるTOKYOを更にバージョンアップするために投資され,結果として作り上げられた「舞台」でパフォーマンスが行われ,それを日本の国民が高鮮度の画面を通じて接するだけなら,それは今の時代,世界どこで行われても同じではないか,そのことが,今以上に東京と地方というデカルト的二分法を産み出すのではないか,という心配です。
都市機能の高度化は,必ず田園とのアンビバレンシーを生み出します。大都市生活者の別荘願望も同じです。しかし,今は,田園には人が住まない,生活が成り立たない,という状況であり,かといって地方は単なる田園に位置づけられるわけにはいかないのです。東京五輪への投資が行われ続ければ続けられるほど,地方は田園化し,日本の「国土形成」は歪みをますます強めることになるでしょう。オリンピック・パラリンピックが,都市開催の前提を廃止し,サッカーのワールドカップのように,国家開催とするなら,日本は世界でも極めて優れた開催場所となりうるでしょう。そのことが,日本の地域創生となることは間違いないことです。残念ながらそのことは叶いませんが,せめて2020年以後の国土形成への東京五輪投資の効果が,地方へ波及的なものになって欲しいと願うのは甘い望みでしょうか。