"進化"という訳語の成立
教授 大堀兼男(生命科学)
進化は"evolution"の訳語ですが、どのようにしてその語が使われるようになったのか、それを探るために、まず日本における進化論の導入の歴史を調べてみます。
日本で進化論、とくにダーウィンの進化論が普及したのには、モースの果たした役割が大きかったと言われています。東京大学の初代の動物学教授として1877年(明治10)に来日したモースは、9月に予備門で進化論の講義を開始し、その後公開講演を行なっています。翌年、学生を対象にした講義を彼は開き、この講義の筆記録を石川千代松がまとめて『動物変遷論』という題名をつけました。その後、石川はこの筆記録をもとにして、『動物進化論』(1883)という本を出版しました。しかし、進化の記述がある最初の本は、葵川信近の『北郷談』(1874)です。彼はこの中でダーウィンの名前を挙げていますが、ダーウィンの進化論の正確な紹介ではありませんでした。また、” 進化”に当たる語はなく、ただ”化成”という語が使われています。1879年(明治12)、 ハクスリーの著作の最初の2章が伊澤修二の訳により、『生種原始論』という題名で出版されています。モースの序文が付いています。この中では、”進化”が使われています。
ところで、モースの講演の前に、進化論の講義が行なわれたことが明らかになっています。たとえば、森鷗外の東京医学校時代のノートから、1874年(明治7)頃、ヒルゲンドルフの講義で進化論が紹介されていたことがわかります。ただし、ドイツ語なので、進化の訳語は不明です。 実は、同時期に生物進化論だけでなく、スペンサーの社会進化論が輸入され、広く受け入れられていきます。その初期には、フェノロサがスペンサーの『社会学原理』第一巻に基づいて、社会進化論を東京大学で講義していました。その興隆は、次のことからも明らかです。1888年(明治21)までに、スペンサーの邦訳書は31点も出版されましたが、生物進化論の本はわずか4点でした。とくに、ダーウィンの”自然淘汰”、”適者生存”を人間社会に当てはめた”生存競争”、”優勝劣敗”の考えに基づく社会ダーウィニズムが広まりました。加藤弘之は、国権論者として『人権新説』を1882年に発表しました。この中では”進化”が使われています。ちなみに、国権論者と対抗していた自由民権論者、さらには社会主義者も社会ダーウィニズムに基づく主張をしていました。松島剛の『社会平権論』(1881-83)は、スペンサーの『社会静学』の訳であり、民権の教科書とされていました。
さて、雑誌などの出版物における進化論の訳語の使用の仕方を調べてみます。1878年(明治11)4月発行の学芸志林(東京大学発行)では、法学者の鈴木唯一がブルックスの論文の訳「動物ノ天性並智慧ノ説」の中で、”変遷”という訳語を使っています。同年5月発行の学芸志林では、哲学者の井上哲次郎がパーソンの論文の訳「宗教理学相矛盾セサルヲ論ス」 で、初めて”進化”を使用しています。このように、初期の頃には、”変遷”、”進化”、さらには”化醇”などが使われていましたが、とくに初めは”変遷”の使用が多かったのですが、その後1880年(明治13年)頃から”進化”の使用が多くなってきます。このように、生物進化論ではなく社会進化論で使われていた訳語が、広く使われることになりました。石川が、筆記録では『動物変遷論』としていたのを『動物進化論』としたのは、典型的な例です。石川と『人権新説』の著者の加藤とは関係があり、石川が東京開成学校に入学した時(1876)、加藤はその校長でした。また、石川は進化論の著作『進化新論』(1891)を加藤に献呈しています。
このように、当時の日本では生物進化論も社会進化論も共通のものとみなされおり、同一の概念を指す訳語として”進化”が使われたと考えられます。しかし、生物学における進化とは、社会進化論の基底にある進歩・発展という考えはなく、”進化”の訳語は生物の進化にはあまり適切とは言い難いものでしょう。
進化は"evolution"の訳語ですが、どのようにしてその語が使われるようになったのか、それを探るために、まず日本における進化論の導入の歴史を調べてみます。
日本で進化論、とくにダーウィンの進化論が普及したのには、モースの果たした役割が大きかったと言われています。東京大学の初代の動物学教授として1877年(明治10)に来日したモースは、9月に予備門で進化論の講義を開始し、その後公開講演を行なっています。翌年、学生を対象にした講義を彼は開き、この講義の筆記録を石川千代松がまとめて『動物変遷論』という題名をつけました。その後、石川はこの筆記録をもとにして、『動物進化論』(1883)という本を出版しました。しかし、進化の記述がある最初の本は、葵川信近の『北郷談』(1874)です。彼はこの中でダーウィンの名前を挙げていますが、ダーウィンの進化論の正確な紹介ではありませんでした。また、” 進化”に当たる語はなく、ただ”化成”という語が使われています。1879年(明治12)、 ハクスリーの著作の最初の2章が伊澤修二の訳により、『生種原始論』という題名で出版されています。モースの序文が付いています。この中では、”進化”が使われています。
ところで、モースの講演の前に、進化論の講義が行なわれたことが明らかになっています。たとえば、森鷗外の東京医学校時代のノートから、1874年(明治7)頃、ヒルゲンドルフの講義で進化論が紹介されていたことがわかります。ただし、ドイツ語なので、進化の訳語は不明です。 実は、同時期に生物進化論だけでなく、スペンサーの社会進化論が輸入され、広く受け入れられていきます。その初期には、フェノロサがスペンサーの『社会学原理』第一巻に基づいて、社会進化論を東京大学で講義していました。その興隆は、次のことからも明らかです。1888年(明治21)までに、スペンサーの邦訳書は31点も出版されましたが、生物進化論の本はわずか4点でした。とくに、ダーウィンの”自然淘汰”、”適者生存”を人間社会に当てはめた”生存競争”、”優勝劣敗”の考えに基づく社会ダーウィニズムが広まりました。加藤弘之は、国権論者として『人権新説』を1882年に発表しました。この中では”進化”が使われています。ちなみに、国権論者と対抗していた自由民権論者、さらには社会主義者も社会ダーウィニズムに基づく主張をしていました。松島剛の『社会平権論』(1881-83)は、スペンサーの『社会静学』の訳であり、民権の教科書とされていました。
さて、雑誌などの出版物における進化論の訳語の使用の仕方を調べてみます。1878年(明治11)4月発行の学芸志林(東京大学発行)では、法学者の鈴木唯一がブルックスの論文の訳「動物ノ天性並智慧ノ説」の中で、”変遷”という訳語を使っています。同年5月発行の学芸志林では、哲学者の井上哲次郎がパーソンの論文の訳「宗教理学相矛盾セサルヲ論ス」 で、初めて”進化”を使用しています。このように、初期の頃には、”変遷”、”進化”、さらには”化醇”などが使われていましたが、とくに初めは”変遷”の使用が多かったのですが、その後1880年(明治13年)頃から”進化”の使用が多くなってきます。このように、生物進化論ではなく社会進化論で使われていた訳語が、広く使われることになりました。石川が、筆記録では『動物変遷論』としていたのを『動物進化論』としたのは、典型的な例です。石川と『人権新説』の著者の加藤とは関係があり、石川が東京開成学校に入学した時(1876)、加藤はその校長でした。また、石川は進化論の著作『進化新論』(1891)を加藤に献呈しています。
このように、当時の日本では生物進化論も社会進化論も共通のものとみなされおり、同一の概念を指す訳語として”進化”が使われたと考えられます。しかし、生物学における進化とは、社会進化論の基底にある進歩・発展という考えはなく、”進化”の訳語は生物の進化にはあまり適切とは言い難いものでしょう。