隠すこころと脳内メカニズム
特任教授 山田 一之 (心理学)
部屋の片づけをしている時、子どもの頃のテストの答案用紙やアイドル雑誌の切り抜き、はたまた結局手渡せなかったラブレターなどが思わぬところから出てきて、つい時間を忘れて眺めてしまった、という経験はありませんか?大概の場合は、懐かしさとともに当時の思い出が蘇ってきて暖かな気持ちになったことでしょう。時には、誰も見ていないのに、思わず赤面して大汗をかいたことがあるかもしれません。
ところで、なぜテストの答案用紙や雑誌の切り抜き、はたまた手紙などが「思わぬところ」から出てきたのでしょうか?焦らずゆったりとした気分で、その当時のことを思い出してみてください。点数が悪かったからお母さんに見られたくなかった。飾っておきたいけど人に見られるのは恥ずかしい。想いの詰まった手紙は捨てられないけど目に触れるのは辛い。そんな理由から、学習机の引き出しの奥にそっと隠したり、秘密の宝箱のようなものにしまったのではありませんか?それも、丁寧に上から色々なものを重ねて。最初はきちんと隠れているかしばしば確かめていたのに、次第にその回数は減り、時とともにその存在も忘れてしまったのでしょう。
話を元に戻しますが、このように私たち人間には、人に見られたくないものだけでなく、自分が見たくないものも隠すという習性があるようです。それでは、このような行動はどのようにして起こるのでしょうか?例えば、心理学では防衛機制という概念があります。これは無意識的に不快な気持ちを押し込めたり、問題をないことにしたりする心理的な作用で、いわばこころの安全装置として不安やストレスなどから自分(のこころ)を守るものと考えることができます。すなわち、防衛機制という概念を使えば、見たくないものを見ることによって、自分が不安になったりストレスを感じないように隠してしまう(見なかったことにしてしまう)のだ、と説明することができるわけです。このように防衛機制による説明はスマートで分かりやすいのですが、精神疾患と関連する行動異常の生物学的基盤について研究をしてきた私としては、どうしても脳や神経のレベルで理解したいという思いがありました。
対象となるものが実際に自分にとって有害であるかどうかに関わらず、見たくないものを隠してしまうという行動は、人間だけでなく他のほ乳類にも見ることができます。そこで私が研究のためのモデルとして注目したのがマウス(ハツカネズミ: Mus musculus)でした。飼育かごの床に厚めにおがくずを敷き、その上にガラス製のビー玉をいくつか並べます。そこにハツカネズミを入れると、ネズミは一瞬驚いたような仕草を見せた後、せっせとビー玉をおがくずで覆い隠し始めます。まさに一心不乱でおがくずをかけて、あっという間にビー玉を覆い隠してしまいます。防御的覆い隠し行動と呼ばれているこの行動は、見たくないものや見てはいけないものを見て、慌てて上から物をかぶせて隠しているヒトの姿ととてもよく似ています。
さて、上でもお話ししたように、見たくないものを隠すという行動は不安やストレスと関連していると考えることができます。不安やストレスは様々な神経系によって制御されていますが、その中でも特にセロトニンとギャバ(GABA: ガンマアミノ酪酸)という物質による神経伝達が重要な役割を果たしていることが知られています。そのためこれまで多くの研究者が、抗うつ薬や抗不安薬の投与によってハツカネズミの防御的覆い隠し行動が減少することを示し、この行動がセロトニンやギャバ神経系の支配を受けていることを明らかにしてきました*1。さらに私たちの研究グループは、生まれつきあまり防御的覆い隠し行動をしない系統のハツカネズミについて、行動だけでなく薬理学や解剖学、分子生物学など様々な角度から研究を行い、このネズミの脳内でセロトニンによる神経伝達を抑える働きをしている受容体(自己受容体)が減少していることを発見しました*2。この結果は防御的覆い隠し行動とセロトニン神経系の関係を示す強力な証拠の一つであると言うことができます。もちろん、隠すというデリケートな行動がたった一つの脳内物質で決められているとは考えられません。これらの研究結果を足掛かりとして、見たくないものを隠す心理とその脳内メカニズムについて、さらに研究を進めて行きたいと考えています。
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*1: Nicolas L, Kolb Y, Prinssen P. A combined marble burying-locomotor activity test in mice: A practical screening test with sensitivity to different class of anxiolytics and antidepressants. Eur. J. Pharmacol. 2006: 547: 106-115.
*2: Yamada K, et. al. Decreased marble burying behavior in female mice lacking neuromedin-B receptor (NMB-R) implies the involvement of NMB/NMB-R in 5-HT neuron function. Brain Res. 2002: 942: 71-78.
部屋の片づけをしている時、子どもの頃のテストの答案用紙やアイドル雑誌の切り抜き、はたまた結局手渡せなかったラブレターなどが思わぬところから出てきて、つい時間を忘れて眺めてしまった、という経験はありませんか?大概の場合は、懐かしさとともに当時の思い出が蘇ってきて暖かな気持ちになったことでしょう。時には、誰も見ていないのに、思わず赤面して大汗をかいたことがあるかもしれません。
ところで、なぜテストの答案用紙や雑誌の切り抜き、はたまた手紙などが「思わぬところ」から出てきたのでしょうか?焦らずゆったりとした気分で、その当時のことを思い出してみてください。点数が悪かったからお母さんに見られたくなかった。飾っておきたいけど人に見られるのは恥ずかしい。想いの詰まった手紙は捨てられないけど目に触れるのは辛い。そんな理由から、学習机の引き出しの奥にそっと隠したり、秘密の宝箱のようなものにしまったのではありませんか?それも、丁寧に上から色々なものを重ねて。最初はきちんと隠れているかしばしば確かめていたのに、次第にその回数は減り、時とともにその存在も忘れてしまったのでしょう。
話を元に戻しますが、このように私たち人間には、人に見られたくないものだけでなく、自分が見たくないものも隠すという習性があるようです。それでは、このような行動はどのようにして起こるのでしょうか?例えば、心理学では防衛機制という概念があります。これは無意識的に不快な気持ちを押し込めたり、問題をないことにしたりする心理的な作用で、いわばこころの安全装置として不安やストレスなどから自分(のこころ)を守るものと考えることができます。すなわち、防衛機制という概念を使えば、見たくないものを見ることによって、自分が不安になったりストレスを感じないように隠してしまう(見なかったことにしてしまう)のだ、と説明することができるわけです。このように防衛機制による説明はスマートで分かりやすいのですが、精神疾患と関連する行動異常の生物学的基盤について研究をしてきた私としては、どうしても脳や神経のレベルで理解したいという思いがありました。
対象となるものが実際に自分にとって有害であるかどうかに関わらず、見たくないものを隠してしまうという行動は、人間だけでなく他のほ乳類にも見ることができます。そこで私が研究のためのモデルとして注目したのがマウス(ハツカネズミ: Mus musculus)でした。飼育かごの床に厚めにおがくずを敷き、その上にガラス製のビー玉をいくつか並べます。そこにハツカネズミを入れると、ネズミは一瞬驚いたような仕草を見せた後、せっせとビー玉をおがくずで覆い隠し始めます。まさに一心不乱でおがくずをかけて、あっという間にビー玉を覆い隠してしまいます。防御的覆い隠し行動と呼ばれているこの行動は、見たくないものや見てはいけないものを見て、慌てて上から物をかぶせて隠しているヒトの姿ととてもよく似ています。
さて、上でもお話ししたように、見たくないものを隠すという行動は不安やストレスと関連していると考えることができます。不安やストレスは様々な神経系によって制御されていますが、その中でも特にセロトニンとギャバ(GABA: ガンマアミノ酪酸)という物質による神経伝達が重要な役割を果たしていることが知られています。そのためこれまで多くの研究者が、抗うつ薬や抗不安薬の投与によってハツカネズミの防御的覆い隠し行動が減少することを示し、この行動がセロトニンやギャバ神経系の支配を受けていることを明らかにしてきました*1。さらに私たちの研究グループは、生まれつきあまり防御的覆い隠し行動をしない系統のハツカネズミについて、行動だけでなく薬理学や解剖学、分子生物学など様々な角度から研究を行い、このネズミの脳内でセロトニンによる神経伝達を抑える働きをしている受容体(自己受容体)が減少していることを発見しました*2。この結果は防御的覆い隠し行動とセロトニン神経系の関係を示す強力な証拠の一つであると言うことができます。もちろん、隠すというデリケートな行動がたった一つの脳内物質で決められているとは考えられません。これらの研究結果を足掛かりとして、見たくないものを隠す心理とその脳内メカニズムについて、さらに研究を進めて行きたいと考えています。
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*1: Nicolas L, Kolb Y, Prinssen P. A combined marble burying-locomotor activity test in mice: A practical screening test with sensitivity to different class of anxiolytics and antidepressants. Eur. J. Pharmacol. 2006: 547: 106-115.
*2: Yamada K, et. al. Decreased marble burying behavior in female mice lacking neuromedin-B receptor (NMB-R) implies the involvement of NMB/NMB-R in 5-HT neuron function. Brain Res. 2002: 942: 71-78.