通信30「テレビCMに耳をすませば、現代社会がみえてくる」
経営学部 准教授 葉口英子
テレビ、映画、ゲーム、ネットの動画といった映像メディアが溢れる現在、映像に何らかの音楽が付随していることは自明であり、そのような映像と音楽の結びつきをもはや‘自然’で‘リアル’なものとして私たちは受容している。しかし、BGMや効果音はのちの編集段階で映像につけられるものであって、両者の結びつきはきわめて恣意的なものだ。
普段私たちがよく目にするテレビCMも例外ではない。例えば、あるCMの背後で流れる効果音や音楽を注意深く聞いてみると、作り手側の意図やメッセージを読み取ることができるだけでなく、現代社会のありようを考えさせられる機会を与えてくれる。
そもそも音楽は生理的反応として私たちの注意を喚起するだけでなく、ある種の気分や感情を引き起こす心理的作用も及ぼす。こうした音楽による心理的作用は、広告効果の記憶・認知・理解・解釈という一連のプロセスにも深く関わる。CMから聞こえてくる音楽で、画面に注意が向いたり、商品・企業名が記憶に残ることは、誰しも一度は経験することであろう。こうした音楽による心理的作用を有効に発揮しているのが、CM音楽の代表ともいえるCMソングである。商品・企業名を歌詞に含み、馴染みやすいシンプルなメロディーにのせて歌にし、CMや商品名を人びとに記憶させ、慣れ親しませる。音楽による効果を取り入れているもっともシンプルな手法だ。
しかし、CMの音楽はCMソングだけでは語りきれない。なぜならテレビCMにおける音楽は、作り手の慣習や音楽文化の変化に伴い、過去から引き継がれ蓄えられてきた広告音楽史と称される独自の歴史があるからだ。その歴史を通じて、特に映像との関連は重要で、両者をうまく結びつけることで、いかに魅力的な広告表現を作り出し、視聴者に注目してもらうかが一つの課題であったといえよう。
日本のテレビCM史を振り返ると、音楽と映像の関係を強く認識させたCMがレナウンの『イエイエ』(1967年)である。広告史では「イエイエ以後」という言葉が誕生し、広告研究でもよく言及されるCMだ。映像は、サイケデリックなグラフィックアニメとカラフルな色の衣装をまとった女性たちが交互にあらわれ、音楽は、小林亜星が作曲したジャズ・ファンク調の曲だ(ちなみに静岡産業大学のキャンパスソングも小林亜星が手がけている)。ハモンドオルガンがサイケデリックなメロディラインを奏で、バスドラとシンバルが刻むリズムがビート感を強調し、女性ボーカルの少しドスの効いた声で「イエィイエィ」と繰り返される。このCMが広告音楽史では「融合期」の象徴と位置づけられるように、映像と音楽が絶妙にマッチした表現だ。「CMの中の音楽は、他の映像や文字情報の補完的要素でしかない」という当時の制作者や作家の考えを覆すほど、先駆的な表現として大きな話題となった。つまり、それまでは脇役にすぎなかった音楽がCMの中で浮上し、むしろ映像や広告メッセージとの調和において重要であるという認識がなされたのだ。
では、CMにおいて音楽と映像が調和するとはどのような事態を示すのか。それはCMに限らず、映画といった他の視聴覚メディアにも通じる説明として、構造レベルと物語レベルでの結びつきが両者の調和の鍵となる。
まず、構造レベルでは、映像はそれ自身のカットの進行でリズムを刻むこともできるものの、音楽のもつテンポやリズムとうまく適合させることにより全体の印象が動的になる。つまり、映像のカット・カメラワーク・事物の動きが音楽のリズムやテンポと同調することで臨場感がでてくる。映像と音楽のデジタル編集・加工が一般的になった近年ではよくみられる手法である。
次に、物語レベルでは、映画音楽の手法と同じく、音楽が映像の状況や物語に合った雰囲気や気分を促すことになる。具体的な事例として国産の自動車会社が扱うセダンタイプの高級車と四輪駆動車のCMをあげてみよう。高級車ではヨーロッパの田園風景にバッハの曲が流れ、四輪駆動車では砂漠の風景にアメリカのへヴィメタルバンドのハードロックが流れる。前者の映像が「ヨーロッパ(=高級感)」や「優雅さ」を表現しており、そのイメージと調和するクラシック音楽が付けられる。一方、後者は砂漠を疾走する「力強さ」「スピード感」を感じさせる映像にふさわしいハードロックが付けられる。これらのCMでは、商品の性質や映像との関連において、音楽の構造やスタイルがもつ意味やイメージとの調和がみられるのだ。
後者の物語レベルにみられるような、商品や映像のイメージと音楽との調和を重視するCMは、日本では1970年代後半からのイメージソング全盛期にさかんにみられた事例だ。同時代の著書『消費社会の神話と象徴』(1970年)でJ.ボードリヤールが指摘したのは、商品は利用価値だけで用いられるのではなく、差異を示す「記号」であるという高度消費社会の特徴であった。日本のCMにおいて、音楽のイメージが商品イメージの差異化の道具としてさかんに流用されたことは、当時の日本が高度消費社会の様相を示していたことを説明する根拠ともなり得るだろう。
普段私たちがあまり気にしていない、あるいは無視しているCM。しかし、CMの音楽にも意味があり、歴史がある。そして、そこから現代社会の諸相が垣間見えてくるかもしれない。機会があれば、CMで流れている音楽に耳をすましてみてはどうだろうか。
テレビ、映画、ゲーム、ネットの動画といった映像メディアが溢れる現在、映像に何らかの音楽が付随していることは自明であり、そのような映像と音楽の結びつきをもはや‘自然’で‘リアル’なものとして私たちは受容している。しかし、BGMや効果音はのちの編集段階で映像につけられるものであって、両者の結びつきはきわめて恣意的なものだ。
普段私たちがよく目にするテレビCMも例外ではない。例えば、あるCMの背後で流れる効果音や音楽を注意深く聞いてみると、作り手側の意図やメッセージを読み取ることができるだけでなく、現代社会のありようを考えさせられる機会を与えてくれる。
そもそも音楽は生理的反応として私たちの注意を喚起するだけでなく、ある種の気分や感情を引き起こす心理的作用も及ぼす。こうした音楽による心理的作用は、広告効果の記憶・認知・理解・解釈という一連のプロセスにも深く関わる。CMから聞こえてくる音楽で、画面に注意が向いたり、商品・企業名が記憶に残ることは、誰しも一度は経験することであろう。こうした音楽による心理的作用を有効に発揮しているのが、CM音楽の代表ともいえるCMソングである。商品・企業名を歌詞に含み、馴染みやすいシンプルなメロディーにのせて歌にし、CMや商品名を人びとに記憶させ、慣れ親しませる。音楽による効果を取り入れているもっともシンプルな手法だ。
しかし、CMの音楽はCMソングだけでは語りきれない。なぜならテレビCMにおける音楽は、作り手の慣習や音楽文化の変化に伴い、過去から引き継がれ蓄えられてきた広告音楽史と称される独自の歴史があるからだ。その歴史を通じて、特に映像との関連は重要で、両者をうまく結びつけることで、いかに魅力的な広告表現を作り出し、視聴者に注目してもらうかが一つの課題であったといえよう。
日本のテレビCM史を振り返ると、音楽と映像の関係を強く認識させたCMがレナウンの『イエイエ』(1967年)である。広告史では「イエイエ以後」という言葉が誕生し、広告研究でもよく言及されるCMだ。映像は、サイケデリックなグラフィックアニメとカラフルな色の衣装をまとった女性たちが交互にあらわれ、音楽は、小林亜星が作曲したジャズ・ファンク調の曲だ(ちなみに静岡産業大学のキャンパスソングも小林亜星が手がけている)。ハモンドオルガンがサイケデリックなメロディラインを奏で、バスドラとシンバルが刻むリズムがビート感を強調し、女性ボーカルの少しドスの効いた声で「イエィイエィ」と繰り返される。このCMが広告音楽史では「融合期」の象徴と位置づけられるように、映像と音楽が絶妙にマッチした表現だ。「CMの中の音楽は、他の映像や文字情報の補完的要素でしかない」という当時の制作者や作家の考えを覆すほど、先駆的な表現として大きな話題となった。つまり、それまでは脇役にすぎなかった音楽がCMの中で浮上し、むしろ映像や広告メッセージとの調和において重要であるという認識がなされたのだ。
では、CMにおいて音楽と映像が調和するとはどのような事態を示すのか。それはCMに限らず、映画といった他の視聴覚メディアにも通じる説明として、構造レベルと物語レベルでの結びつきが両者の調和の鍵となる。
まず、構造レベルでは、映像はそれ自身のカットの進行でリズムを刻むこともできるものの、音楽のもつテンポやリズムとうまく適合させることにより全体の印象が動的になる。つまり、映像のカット・カメラワーク・事物の動きが音楽のリズムやテンポと同調することで臨場感がでてくる。映像と音楽のデジタル編集・加工が一般的になった近年ではよくみられる手法である。
次に、物語レベルでは、映画音楽の手法と同じく、音楽が映像の状況や物語に合った雰囲気や気分を促すことになる。具体的な事例として国産の自動車会社が扱うセダンタイプの高級車と四輪駆動車のCMをあげてみよう。高級車ではヨーロッパの田園風景にバッハの曲が流れ、四輪駆動車では砂漠の風景にアメリカのへヴィメタルバンドのハードロックが流れる。前者の映像が「ヨーロッパ(=高級感)」や「優雅さ」を表現しており、そのイメージと調和するクラシック音楽が付けられる。一方、後者は砂漠を疾走する「力強さ」「スピード感」を感じさせる映像にふさわしいハードロックが付けられる。これらのCMでは、商品の性質や映像との関連において、音楽の構造やスタイルがもつ意味やイメージとの調和がみられるのだ。
後者の物語レベルにみられるような、商品や映像のイメージと音楽との調和を重視するCMは、日本では1970年代後半からのイメージソング全盛期にさかんにみられた事例だ。同時代の著書『消費社会の神話と象徴』(1970年)でJ.ボードリヤールが指摘したのは、商品は利用価値だけで用いられるのではなく、差異を示す「記号」であるという高度消費社会の特徴であった。日本のCMにおいて、音楽のイメージが商品イメージの差異化の道具としてさかんに流用されたことは、当時の日本が高度消費社会の様相を示していたことを説明する根拠ともなり得るだろう。
普段私たちがあまり気にしていない、あるいは無視しているCM。しかし、CMの音楽にも意味があり、歴史がある。そして、そこから現代社会の諸相が垣間見えてくるかもしれない。機会があれば、CMで流れている音楽に耳をすましてみてはどうだろうか。